稲作と資産運用
みなさんこんにちは。

この世に住む大半の人にとって得られる収入は、
その人自身が創造した価値の総量と等価ではないか・・
時々私はこんなふうに考えることがあります。

たとえば新聞配達をするひと。

彼の生みだす価値は新聞の物理的な移動ですが、
その移動によって読者が受ける便益の合計と、彼の収入は
イコールで結ばれる・・・例えばこんな考え方です。

あるいはたとえば塾の先生。

彼の生みだす価値は何でしょうか、一言でいえば生徒の
知識や思考力を増進させること、それが彼の生みだす価値と
いうことになるのでしょう。この場合塾の先生の収入は、
彼が教える生徒の知力増加を足し合わせたものに、長い時間を
かけて収れんしてゆくのかもしれませんね。

新聞配達員は主に自らの肉体を使用し、塾の先生は主に
頭脳と肉体を併用する・・・このように職種によって使用部位は
異なりますが、つまるところ人体のどの部分を使おうが、彼の
得る収入は、彼が生みだす価値の合計に収れんすることになる、
私はこんなふうに考えるわけです。

ではそういう観点で資産運用をみると、いったいどういう
ことになるのでしょう。

人体のどの部位を使用して、価値を創造しているという
のでしょうか。

あるいはそもそも価値など創造していないのでしょうか・・・

まず価値の創造の有無についていいますと、私はやはり
価値を創造していると思います。

例えば大昔、人間にとって稲作が最先端の産業だったころ。

近い将来の天候を予想することは、彼らにとって生死を分かつ
重要な作業だったはずです。

彼らが生み出した価値は、彼ら自身の経験と努力によって得た、
自らの『予測力』ではなかったでしょうか。この場合、彼らは
その『予測力』にみあうだけの収穫を得ることができたはずです。

言い換えれば得られた付加価値の多寡によって、彼らの収入が
決定するわけで、そういう意味で、さきほどの新聞配達員や
塾の先生と何らかわるところはありません。

同様のことが現代の資産運用にもあてはまるのではないでしょうか。

自らが得た『予測力』という価値の総量が、自身の収入
を決定するという点で、資産運用は先ほどの太古の稲作と同様
ですし、さらにはまた新聞配達員や塾の先生とも同様です。

ただ資産運用は、使用する人体の部位としてハート(即ち精神力)
をより多用するという意味で、少々異質ではありますが・・・



では、今回はこのへんで。
(2010年3月2日)




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