■江戸時代のQE
みなさんこんにちは。
最近よく荻原重秀という人の名前を耳にします、
この人は江戸の元禄時代の経済官僚(勘定奉行)で、
いまでいえばまあ日銀の総裁と財務大臣をあわせた
ような仕事をした人です。
元禄時代と言えば、なんとなく景気が良くて
文化の爛熟期のようなイメージがありますが、
意外にもその初期は経済が停滞していました。
当時は新しい金や銀の鉱山の発見がとだえ、
金貨や銀貨の供給量が減る一方で、経済の規模は
拡大していました。つまりいまでいうところのマネーの供給が
実体経済に追いつかない、いわばデフレの状態にあった
といえるでしょう。
このようなデフレ状況のさなか、
当時の将軍、徳川綱吉に抜擢された荻原がとった
政策が、まさにいまでいうQEでした。
いまなら日銀が紙幣を印刷し、市場で流通する
国債と交換すれば市中のマネーは増えますが、
もちろん当時は紙幣も金融市場もありません。
荻原が行ったQEは、市場で流通する金貨や銀貨と交換に、
新しい金貨と銀貨を発行するという政策、いわゆる
『改鋳』です。
それまで流通していた金貨は、なんと関ヶ原の合戦の翌年、
すなわち1601年から100年近くも流通してきた「慶長小判金」
でした。
この金貨の重量は約18グラム、金の純度は約86%です。
これに対して荻原政策によって発行された「元禄小判金」は、
重量は同じく約18グラムですが、これに対して純度はうんと
低く約56%です。
つまり35%ほど金の含有量を減らしたわけですね、
この改鋳(元禄改鋳:1695年実施)によって、貨幣は相対的に
価値が薄まり、市場はデフレから緩やかなインフレ状態へと
転換しました。
その先はおなじみの元禄時代で、経済は活性化し、
大衆文化が開花いたしました。紀伊国屋文左衛門が
吉原でまいた小判も、きっとこの改鋳後の純度が低い
ものだったに違いありません。
・・・とここまではとてもおめでたいお話し。
問題はその後です、改鋳は金の含有量の多い金貨と、
少ない金貨の交換で、この場合発行体である幕府は、
改鋳によって利益を得ることができます。
元禄の改鋳によって、当時の幕府は500万両の
改鋳益をあげたと言われますが、この額は当時の幕府の
歳出の3年分以上に相当したそうです。
改鋳益をえながら、長らく続いたデフレをとめ、
経済を活性化する政策・・・
おそらく改鋳は荻原や幕府にとって、
打ち出の小槌のような万能の政策にみえたのでは
ないでしょうか。
お約束どおり幕府はその後数度にわたって改鋳を実施しました、
特に目を引くのは、次の宝永時代に行われた改鋳(宝永改鋳:
1710年実施)で、金の含有量を、さらに20%以上減らしています。
この改鋳によって、幕府は元禄の改鋳以上の利益を挙げましたが、
問題は過去の改鋳の結果、この時点ですでに物価がゆるやかな
上昇傾向にあったという点です。
そこに行った再改鋳の結果、貨幣供給量が4年間で20%以上増加する
と同時に、米価も同時期に80%以上の上昇となりました。つまり
激しいインフレを誘発してしまったわけです。
300年まえのQEは、当初きわめて有効に機能しましたが、
QEから足を洗えず、結果的に激しいインフレを招いて
しまったといってよいでしょう。
当時の当局者は、打ち出の小槌の誘惑に、
勝つことができなかったわけです。
果たして荻原重秀から300年後の当局者は、
強い意志をもって、この誘惑を断つことができるの
でしょうか・・・
では今回はこのへんで。
(2013年10月1日)
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